「かたち」のいたずら。「いろ」のおまじない(11) ~たびさきで出会った絵のお話し~

ザ・ラスト・浮世絵アーティスト 見参!

明治・大正期を迎え、庶民の関心は西洋から輸入された写真の技術や石版などに押され気味で、徐々に浮世絵から離れていきます。

そんな浮世絵にとっては「受難」の時代にあって奮闘した、いわば“ザ・ラスト浮世絵アーティスト”の中から、浮世絵旅情詩人・川瀬巴水(かわせはすい)という絵師を紹介いたします。

川瀬巴水(かわせはすい)
1883~1957年

川瀬巴水とは、大正・昭和初期に活躍した版画家ですが、当初は日本画の大家 鏑木清方(かぶらききよかた 1878~1972年)に入門したり、洋画家の岡田三郎助(おかださぶろうすけ 1869~1939年)に指導を請うたり、紆余曲折あって最後には「木版画」に魅せられて版画家へと転身いたします。

彼が「風景版画」の世界で一躍名を馳せたのは既に35歳にもなろうかという頃ですから、随分と遅咲きだったのですね。

でもその後、没するまでのおおよそ40年間で600点ほどの「風景版画」を遺します。

『増上寺の雪』紙・木版
初摺版 は1953(昭和28)年
旅みやげ第二集より『大坂道とん堀の朝』1921年

明治・大正期、衰退の一途を辿っていた浮世絵版画の復興を!とその中心になった版元(出版社)がありました。

そちらが現在も続く渡邊版画舗渡邊正三郎という方。

その渡邊正三郎から巴水に「風景木版画」の制作依頼がくるのです。

そうして彼らの活動が「新浮世絵版画」の旗手たちとして注目され始めるのです。

巴水とはまさに「浮世絵旅情詩人」

1920年、37歳の頃には日本各地を取材し、最初の連作となる『旅みやげ第一集』を完成させました。

川瀬巴水の作品は、旅先を詩情豊かに描きます。

対象を捉える誠実な眼差し。

端正に正確に構図を捉える写生力。

「旅の記憶」を切り取ってきたかのようでしょ。

浮世絵版画受難の時代にあって、まさに“ヌーベル・浮世絵版画”という感じでしょうか。

旅みやげ第一集より『陸奥三島川』1920年
『日光中禅寺湖』1930年
『西伊豆 木負』1937年

果たして「大正期の新版画」は「江戸期の版画」と何が違うのでしょう。

浮世絵版画とは作品の完成を見るまでに分業によって様々な工程があります。

 ・ 絵師 = 版元から依頼された構図を元に下絵を作り「色使い」を構想します。

 ・ 彫師 = 下絵に合わせて版木(はんぎ)を掘ります。版木は使用する色分を作成します。

 ・ 摺師 = 和紙などに版木を摺る作業を行います。巴水作品は「摺り」の作業が一作品に対して30~40度の「摺り作業」を行うとの事です。

その手間暇を惜しまぬ製造工程ゆえにでしょうか、巴水作品には木版画とは思えない臨場感とリアル、それから郷愁を感じます。

でも同時に「創意」を凝らす彼の姿勢は時に彫師や摺師たち、作業を共にする職人たちとも軋轢を生むこともあったのだとか・・・。

「新版画」は当初、諸外国でも好評を博すことをもくろんでいましたし、事実、諸外国からも賞賛の声が寄せられました。

好評を博す巴水や、同時代の伊藤深水(日本画家・版画家。女優 朝丘雪路の実父。1898~1972年)の作品は、当時の海外諸国からの来賓への贈呈品としても使われてきたとの事です。

例えば現代においても、スティーブ・ジョブス(1955~2011年 アップルコンピュータの共同創業者の一人)は熱烈な巴水作品のコレクターであったと聞きます。

ここ何年かで日本国内においても川瀬巴水の企画展が頻繁に行われ、注目されるようになってきました。

その川瀬巴水。

長らく苦しんだ胃癌のため、74歳でこの世を去ります。

病床にて苦しみながら制作した、遺作となる『平泉金色堂』はついに完成をみることはなかったのです。

背中を向けた僧侶がお堂へ向けて雪の石段を踏みしめます。

彼の雪を踏みしめる音以外は他に音がしないかのような世界。

鬱蒼とした樹々に囲まれた金色堂。

どうしてだろう「観る者の視線」はやがて、しんしんと雪を降らせる上空の漆黒へと誘われていくのですよ。

こちらが川瀬巴水。

全国を隈なく取材した「浮世絵旅情詩人」の絶筆なのです。

『平泉金色堂』川瀬巴水 紙・木版 1957年

《つづく》