パトラッシュと歩いたホーボーケンの小径(2)

「政略結婚」という言葉を聞いたことはありますか?

王室の家系といえども昔のことだから、お世継ぎが誕生しても果たして儚い露命もつかの間!

いつ流行り病にやられ、あの世に召されるかわからない・・・

だから王女や王子をまだ幼いうちから他国の王室と縁組をさせるのです。

そうして生めや増やせやで子孫を残しておかないといけません。

だから「私あの人のこと嫌いなの!」とか関係ないのです。

王室にとっての婚姻は、王室を相続していく政略のうちの一つです。

そのようにして自分たちの家系の相続を強固にしておかないと、いつどこから領有権を主張されるかわからないのですよ。

だからオーストリアハプスブルク家は、当面の仇であるフランスブルボン王室を包囲するために、自分たちの王子とスペイン王室の王女とを幼いうちに婚姻関係を結ばせたのです。

一時期、オーストリア・ハプスブルク家は、ウィーンの宮廷よりもスペインの王室に拠点を置いた時代があったのです。

そしてネーデルランド(ベルギーとオランダ)は、 “オーストリア(ハプスブルク家)の君主が玉座に座ったスペイン”を宗主国とする、という運命をたどります。

この時代のヨーロッパの王室は、国を統治するためには、絶対的権威でありヨーロッパ文化の精神的支柱であるカトリック教皇庁を後ろ楯とする必要があったのです。

だから領地の政策を進めようと思ったら、カトリックの主張を全面に押し出して擁護して、教会から何かと便宜を図ってもらったのです。

民衆は、「聖書の中に書いてあるがごとく物を考え、日々の暮らしを送りなさい」と教会によって教導されていきます。

しかし民衆は、聖書のことば(欧州では学問のことばはラテン語)を理解できなかったのです。

だから聖職の道に携わる僧の手助けが必要だったのです。

つまり、“日常の言葉”“聖書に書かれる言葉(ラテン語)”は違ったのですね。

そうやって、ヨーロッパ中世は1000年近くも、老いも若きも教会という神の庇護のもとならば心の平安はもたらされたのです。

でもやがて、そんな実態のない平安は脆くも崩れます。

キリスト教文化の東の拠点である古い都・コンスタンティノープル(現イスタンブール)は、騎馬民族のオスマン・トルコに包囲され、やがては陥落します。(1453年コンスタンティノープル陥落)

教会堂(教会の建築物)は次々とイスラムのお寺に姿を変え、朝な夕なコーランが唱えられるのですよ。

教会堂で真摯な祈りを捧げていれば、気持ちの平安は保たれたのではなかったのですか?

勢い世紀末の様相を呈します。

更に更に、カトリックは大変な暴挙に出ます。

はるか遠い昔、世界史の授業に『免罪符(贖宥状)』(1517年頃)っ出てきたでしょ?

つまりはカトリック教会が発行した、犯した罪の償いを軽減する証明書ですね。

あなたがたとえ現世で罪を犯したとしても、カトリック教皇庁の金庫にチャリ~ンとお賽銭が投げられれば、あなたの天国への扉は開かれたもの!ってそんなものを乱発して得た収入は、あのサン・ピエトロ大聖堂(バチカン市国にあるカトリック教会の総本山)の建築費用にも投入されました。

教皇庁のほころびは誰がみても明らかだし、ドイツの一司祭であったマルティン・ルターはカトリック教皇庁を【95箇条の論題】でもって真っ向から批判いたします。

カトリック教皇庁はルターに向かって「破門じゃわい!」といきりたつものの、当時のドイツの諸侯たちによって守られ、ヴァルトブルク城に籠りドイツ語による聖書の翻訳に着手するのですね。

それでもカトリック教皇庁を後ろ盾にする君主たちはカトリック擁護派です。

仕舞いには「異端審問所」という、カトリック教の教えに反する考えを持つ者を裁判するための施設が設置されます。

つまりは平然と行われる魔女狩りのようなもの。

どうにもこうにも先端産業に携わるインテリジェンスにとっては居心地がよろしくないのですよ。

だから人々は新しい活躍の場を求めます。

つまりは新天地を求めて国外逃亡ですよ。

オランダとベルギーを合わせてネーデルランドというけれど、北部(つまりオランダ)は早くから宗主国スペインからの独立を勝ち取ることに旺盛で、カトリックの気風というよりもっと自由闊達な雰囲気に満ちていたのです。

だからベルギー(ネーデルランド南部)の産業に携わる国民たちは、オランダへと亡命してゆくのです。

オランダは17世紀にどの国も寄せ付けないくらいの海運国になりえたけれど、ベルギーから産業に携わる頭脳が流入したのもオランダの発展を後押ししたのですよ。

もちろんベルギーだって様々な産業で経済活動は活発でした。

羊毛の加工産業、リネン産業、日刊の発行や印刷産業、それからとっても手の込んだ熟練の職工たちが時間と手間をかけて編むタペストリー。

そんな産業に携わった人たちは皆、新天地を求めてベルギーを後にいたします。

「聖書の中に書いてあるがごとく物を考え、日々の暮らしを送りなさい」とか、生活の規範に従っていたら例えば新しいベンチャービジネスのチャンスなどのアイデアも浮かばないのですよ。

だからある一面では、宗教的な対立は様々な利害が複雑に絡みあうのです。

決して宗教の理念だけで争ったわけではないのですよ。

オランダはスペインからの独立の歩みを進めていきますが、ベルギーはスペインにとどまります。

そうしてベルギーが主権国家として認められるのは1830年のことになります。

イタリアのジュゼッペ・ヴェルディが作曲しました歌劇『ドン・カルロ』を知っていますか?

舞台は16世紀中ごろのスペインの王室。

主人公である王子ドン・カルロ。

そのドン・カルロが舞台でこう歌うのですよ。

 ―あの美しく豊かであったフランドル(フランダース)がこのようなみじめな姿に・・・果たしてそれは!―

つまりは、ドン・カルロは父であるスペイン国王のベルギーにおける政策にものすごく無念の思いを感じている、ということなのです。

スペインの政策がベルギーに後々まで大きな爪痕を残したのですね。

そんな南ネーデルランドに位置する現ベルギーが、ようやく独立を果たしたものの、さしたる産業も芽生えずうら寂しい限りの日常。

そんな土地を舞台にした物語が『フランダースの犬』なのです。

《つづく》